やんちゃなホームラン王をリーダーに育てた師の存在 山崎武司(スポーツコメンテーター)


 

寝ないまま試合に出ていた20代の頃

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山崎さんは27年間という非常に長きに渡って現役生活を続けました。その長い現役生活の中で、体調管理面で特に気を配っていた事は何ですか?

 

一番はまさに睡眠でした。僕の場合は少し人とは違う感覚で睡眠をとっていました。よく「成人男性の睡眠時間は8時間だから…」とか、「僕は7時間も寝れば十分」と言ったりしますよね。睡眠時間の「長さ」に拘る人が多い。でも僕の場合は、毎日決まった長さの睡眠時間をとるのではなくて「眠いな」と思ったらすぐ寝る、という取り方です。
シーズン中は、翌日がナイトゲームだと夜遅くまでお付き合いしようと思えば出来るのですが、たとえ相手がお世話になっている目上の方でも、眠くなってきたら無理はせず、「すみません。明日もあるのでそろそろ失礼させていただきます」とお話してすぐに帰るようにしていました。そうすれば翌日の朝も目覚まし時計を使って無理やり起きるのではなくて、自然と目が覚めた瞬間に起きることが出来ます。

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「疲れて眠くなったらすぐに寝て、起きたいなと思った瞬間に起きる」という生活を、翌日に試合があるないに関係なく普段の生活から実践していました。そんな選手はなかなかいないですよ(笑)。でもそのほうがストレスは溜まらないですし、翌日の試合での集中力も全然違いました。

 

肉体を極限まで酷使するアスリートとしては、理想の睡眠のとり方をしていたように思います。そうした意識の高さは、プロになった頃から持っていたのですか?

 

20代の頃はまったく気にしていませんでした(笑)。「俺は3日くらい寝なくても野球はできる」と思っていましたから(笑)。例えば東京遠征で3連戦があったとします。
4泊5日で試合前日に東京に入り、試合の前日は軽く調整練習だけなので夜は朝まで遊ぶ。翌日も、試合の後でも全く平気なのでもちろん遊びに行く。で、2戦目の夜、3日目にようやく「ちょっときつくなってきたな……。やっぱ寝ないとあかん!」と思って寝るようにしていました。若気の至りとはいえ、20代の頃はプロスポーツ選手としては恥ずかしい生活でした。

 

中日時代の1996年にホームラン王を獲得した頃もそうだったんですか

 

適当中の適当(笑)。何も考えていませんでした。食べたいものを好きなだけ食べていました。幸いにもお酒が呑めないのが良かったのかもしれませんけど、いつも「もうちょい遊んで帰ろうか」の繰り返しでした。

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ではいつ頃から睡眠や体調管理に気を配るようになったのですか?

 

37歳で楽天(2005年、プロ野球に新規参入した東北楽天ゴールデンイーグルス入団)に移ってからです。出来たばかりのチームで、ベテランと同時に経験の浅い若い選手も多かった。僕はオリックスをクビになって、引退してもおかしくない状況にいたのに拾っていただいた。なのでどうにかして恩返しがしたかった。
後輩の見本にならなければいけないと考えたのですが、「いくら実績があったとしても、そんなぐうたらな生活をしとったら、それを見た若い選手たちはどう思うかなと。今までになかった責任感が芽生えました。仙台ではホテル暮らしでしたが、「これからは規則正しい生活をして球場に向かおう」と決めました。

 

27年間の現役生活の中で印象深かった出来事は何ですか?

 

さきほども話が出ましたけど、1996年、最初にホームラン王を獲得した次の年のシーズンですね。もう毎日が不安でたまらなかった。自分で言うのもおこがましいですけど、すばらしい数字を残して「おまえはこれからプロの世界でも王道を行くだろうな」とまわりからもチヤホヤされ、給料も上がった。「もう何も不安材料はない」とまわりからは思われていました。でも僕自身は、すでにタイトル争いをしている時から不安で、翌1997年シーズンはずっと不安との戦いでした。試合後、毎晩のように遊びにでかけていたのも、一瞬でも良いから不安な気持ちを忘れて、プレッシャーから開放されたい気持ちも強かったですね。

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ホームラン王のタイトルを獲得した1996年シーズンは、9月に入って自分が不調で一ヶ月間、松井に差を付けられて2番手で追いかけていましたけど、全然、眠れませんでした。朝の5時くらいまでずっと眠れない。試合が終わっても「明日はどうしようか、明日のピッチャー、どうやって打ち崩そうか」と朝方まで悩んでいました。
そうこうしているうちに朝刊が届く。で、今度は成績表を見て「ああ、松井はあと何試合残っているから、いまのペースで打ち続けると○本まで届くな」とか頭の中で計算していました。「松井は、最後は合計○本打つだろうから、俺はあと○本打たなければいけないのか」と毎日同じことばかり考えていました。
ホームラン王を獲れるチャンスなんてなかなかないと思っていましたから、余計にプレッシャーに感じてしまった。結果的にはタイトルを獲れましたが、睡眠不足も重なって調子を崩し成績も伸び悩んだように思います。やっぱり、睡眠は大切ですよね。楽天でホームランと打点のタイトルの2冠を獲った時は、毎日、睡眠もしっかりとっていました。結果、集中力も沸いて試合でもプレッシャーもなく打席に立つことが出来ました。

 

名将 野村克也との出会い

2004年シーズン、山崎さんは中日から移籍したオリックスで監督と衝突し戦力外通告を受けました。一時はこのまま引退も考えますが「ここで本当にダメなら野球をやめる」という不退転の決意で、新規参入球団の東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍しました。初年度は田尾安志監督の下で打撃フォームの改良に挑みチーム最多の25本塁打。そして翌2006年シーズン、野村克也という、その後の野球人生を大きく変える師と出会い、翌2007年シーズンには39歳にしてホームランと打点の2冠王に輝くのでした。

 

山崎さんにとって、野村監督はどんな存在でしたか?

 

 野球の楽しさをもう一度教えていただいた監督ですね。ぼやいてばかりいて選手を褒めないイメージが強いですけど、実際は人情味ある監督でした。自分みたいな選手にも威張った雰囲気はまったくなく、むしろ真摯な対応で敬意を表してくれました。「選手としても監督としても本当に素晴らしい成績を残している偉大なる野球人なのに、なぜ俺みたいな選手に敬意を表してくれるのか」と驚きました。最初は警戒していましたけど(笑)。 プロになれるような選手は、みんなプライドの塊みたいなものです。でもそのプライドの高さを良い方向に持っていってパフォーマンスに繋がるように生かしてやれば良い。野村監督はそういう所がうまかったですね。

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引退後、自動車レースに挑戦する事を表明し話題に。去年7月26日、富士スピードウェイで行われた「GAZOO Racing 86/BRZ Race」第6戦ではBレースを予選41番手から順位を上げて30位で走り切った。

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  野村監督から直接、細かい指示を受けることはありませんでしたが、若い選手にアドバイスをしている様子を盗み聞きしていると、納得できることが本当に多かったですね。僕は、バントが上手いわけではないし足が速いわけでもない。そんな僕に野村監督はいつも「打つほうでがんばれば良い」と言ってくださった。しかも「三振しても別に良いじゃないか」とまで言ってくださいました。なかなか「三振しても良い」とまで言える監督はいないですよ。でも野村監督は「良い投手のストレートも変化球も、全部打とうとするのは無理。ストレートにヤマを張って3球とも変化球でストライクを取られたら、三振しても仕方ないじゃないか」と言って下さいました。僕みたいな長距離打者には、これはすごくありがたい言葉でした。 あとは、僕はどちらかと言えば「来た球を打つ」と本能で野球をやるタイプでした。でも野村監督と出会ってからは配球を読む事、「考える野球」を初めてするようになりました。

 

監督によって選手は変わるものですか?

 

 監督で生きる選手と死んでしまう選手は必ず出てきます。必ず勝ち組と負け組が生まれる。自分も何度も負け組に入った経験があります。前のシーズンまではバリバリのレギュラーだったのに、監督が代わった途端、一気に負け組になった。選手は監督の命令に従ってやらなければいけない立場にありますよね。でも僕は最初に中日を離れる時は、監督と衝突して監督室にバットを投げつけた。オリックスをクビになった時も監督に対して「あんたに飯を食わしてもらっているわけじゃねえ」と言ってしまったので嫌われてしまった。口は災いの元だね(笑)。

 

そういう意味でも山崎さんの性格を把握した上で気持ちよく野球が出来る環境を作ってくれた野村監督との出会いは大きかったですね。

 

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野村監督からは本当に自由にやらせて頂きました。ただそのかわり「最後は自己責任だ」とは常々言われていました。「野球選手として自分でもうダメだと思った時は自分で責任をとって引退しなければいけない」と。野村監督からは「おまえ、そろそろだな」としょっちゅう言われていたよ(笑)。「おまえ、そろそろ引退やな」と。 でも、星野監督になって楽天を退団する事を報告して、「でもできればもう少し現役を続けたいんですけど」と相談したら「じゃあやれば良いじゃないか」と励ましていただきました。
「おまえは他人に引退を決めてもらうような立場じゃねえだろ。まわりがどうこう言うからじゃなくて、自分の意思だけは貫け。それで球団が雇ってくれるか、雇ってくれないかは別問題だ。でも自分の気持ちに対して俺はもうクビだから辞める、というのはダメ。とにかく自分でやりたいのかやりたくないのか、という気持ちを大切にしろ」と言われました。そう言われて現役続行を決意して何とか頑張りたいなと思っていたら、古巣のドラゴンズが引き取ってくれました。
ドラゴンズでも最後はセレモニーや引退試合までして頂きました。過去にドラゴンズで、出戻りで引退試合をしてもらった選手はいませんでした。そういう意味でもめちゃくちゃ嬉しかったですし、晩年になって素晴らしい師に出会え、そして素晴らしい球団で最後を迎える事の出来た、本当に幸せな現役生活だったと思います。

 

快眠のために用意した6種類の自分専用枕

身長182センチ、体重は100キロ。現役時代の豪快なホームランを打つ姿から細かな事は気にしない性格に見られる山崎さん。でも実際は小さな物音や僅かな光でも眠りにつけない繊細な一面を持っていました。元プロ野球ホームラン王の山崎武司さんが現役選手の晩年に拘ったのは“枕”でした。  

 

睡眠にも気を配るようになった晩年、他にも何か拘った事はありますか?

 

プレースタイルや練習に限らず、長く現役を続けることが出来る人はみな何かしらのこだわりを持っています。僕の場合で言えば、ベッドはかなり硬めでなければ眠れないのでしょっちゅう変えていました。あとは枕。仙台でホテル暮らしをしていた時は部屋に自分専用の枕を6つ置いていました。
素材はそば殻、低反発ウレタン、高反発ウレタン、ビーズ入り。形状も頚椎から後頭部にかけて負担が偏らない構造のタイプで高さの違うものなど6種類。で、その日の体調や気分に応じて種類を変えていました。もっと若い時からそういう事に気が付いて、身体のケアに気を配っていたらとは思いますけど、人生のうちの3分の1は寝ているわけですから、アスリートに限らず睡眠は一番お金をかけるべき所ですよね。

 

引退してから生活のリズムは変わりましたか?

 

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「眠くなったらすぐに寝る」という生活スタイルは基本的には変えていません。特に自宅にいる間は、家族の中で一番早く寝ています。夜はだいたい9時から10時の間には寝てしまいます。

 

 寝室の環境は?

 

キングサイズのベッドで、ひとりで寝ています。大きなベッドなのにいつも端っこに寄って(笑)。妻とも結婚したばかりの頃から寝室は別々です。じつは僕、すごく神経質なんです。部屋を真っ暗にしなければ眠れないから遮光カーテンを使っていますし、ホテルでもカーテンの隙間から入る僅かな光が気になってテープを貼ったりする事もあります。

 

20代や30代の頃と、睡眠の質に変化はありますか?

 

熟睡して朝を迎える事はないですね。必ず途中で何度か起きてしまいます。若い頃は、多少揺れる程度の地震で目は覚めませんでしたけど、いまは少し物音がしただけでも一瞬で起きてしまいます。眠りに深みがなくなってしまいました。なので、いま一番、睡眠で気持ち良いのは昼寝です。

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最後にこれからの目標を教えて下さい。

 

現役プレーヤーとしての、山崎武司は終わってしまったので、ホームランを打ちたいと思っても打てませんし、現役復帰したいと思っても無理。なので、今すぐにではないですが、いつかはユニフォームを着てグラウンドに戻りたい気持ちはあります。野球の現場から離れて、レース活動も含めて忙しい中でもやりたい事は何でもチャレンジしていますけど、でも、どこまでいっても僕は野球に生かされてきた人間です。いずれは現場に戻りたい。ただ、仮にコーチになったとしても現場にしがみつくような事はせず、職人魂を持って取り組みたいと思います。 結果が出なかったら自己責任ですぐに辞める覚悟を持つ。最終的には最高責任者である監督になりたい。いまはそんな大いなる目標に向かって、さまざまな経験を積んでその日に備えています。

 

 

 

取材後記

現役時代、輝かしい記録を残したホームラン王の山武司選手。 お話を進めていくと、非常に詳細に笑顔も交えながらお話をしていただきました。現役時代の話、楽天入団後の体のケアに対する意識の変化、独自の睡眠法。 年齢とともに無理の無い自分らしい管理と、ストレスをためないようにする考え方・行動は実に理にかなっているなと感じました。 豪快なイメージがある方ですが、実は繊細で細かいケアを“自然”にしている。 方法論にとらわれずに、大事な本質を見つめて実行する点がとても素晴らしいな、と感じました。 自分で考えて自己責任で行動する。プロの世界で長年活躍してきた方だからその意識が徹底されていました。 いつの日か、山崎さんがプロ野球の監督で活躍される日を楽しみにしています。

ねむりくらし研究所 高橋幸司